特集記事

理路雑然 /-23-

2014年12月27日(土)

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理路雑然

 日頃神も仏もない生活をしているくせに、折々にはお祓いやお参りをする。勝手なものだ。しかし神はもともと罪を犯した者に禍し、良いことをした者に幸いするような、都合いい存在ではない。神と人の尺度は比較できない。神は理由なく祟る(たたる)存在だ。祟られないようにするには鎮めなければならない 

 神主の祝詞(のりと)でよく聞くのは「掛(か)けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ) 筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に 御禊(みそぎ)祓(はら)へ給(たま)ひし時(とき)に生(な)り坐(ま)せる祓戸(はらへど)の大神等(おおかみたち) 諸諸(もろもろ)の禍事(まがごと) 罪(つみ) 穢(けがれ)有(あ)らむをば 祓(はら)へ給(たま)ひ 清(きよ)め給(たま)へと白(もう)す事(こと)を聞(き)こし食(め)せと 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す」というものだ。勝手に解釈すると、「良くないことが起きるのは身が汚れているから。恐れ多い神様、どうか心と身を清めて下さい」とでも言うことか 

 旧約聖書に出てくる神は、生け贄を求めた。人の世界の愛情とか善悪とか通用しない怖い存在だったが、人は時を重ねて優しく変容させた。スマトラ沖の地震津波で多くの人が死んだ。確かめようもないがローマカトリックの聖職者が「神は存在しない。こんな無慈悲なことを神が許すわけはない」と言ったとか 

 科学的な現代人は自然災害を神が起こしたものとは考えない。しかし被害は「罪、穢れ」つまり自然破壊や目の前の損得、怠慢のせいと考えてもよい 

 神とは、祟られることがないよう慎重に付き合う必要がある。神や仏にお参りする時、「お願い」ではなく、穏やかにある今を感謝し、努力を誓うのが正しい姿だそうだ。なるほど。


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