特集記事

理路雑然 /-117-

2018年09月08日(土)

特集記事

理路雑然

以前から会津を訪れたいと思っていたが、やっと行くことが出来た。というのも、幕末の戊辰戦争の歴史を知り、何かしら負い目を感じていたからだ。もちろん我が身は会津を攻めた薩摩でも長州でもないし、生まれてもいなかった時代のことで、歴史本数冊の知識だけなのだが  

明治維新、徳川慶喜は大政奉還し幕府は滅びた。幕府側であった会津藩松平容保も恭順の意を表したにもかかわらず、新政府軍(官軍・会津では西軍と呼ぶ)は会津を攻めた。新政府軍と敵対していた奥羽列藩の中心だったからだ。この戦で、武士だけでなく、農民、婦女子、子供も多くの命を落とした  

白虎隊は十六歳前後の武家の子弟たち。戦地から帰還途中、飯盛山から鶴ヶ城(会津松平藩)が落城したと誤認し、武士らしくと自刃した。偶然に蘇生した一人の隊士の証言が残る。飯盛山から城を望み想いをめぐらすとその憐れさが胸に迫る  

とにかくこの藩は全てに真面目すぎたのだ。あまりにも武士の教えに実直だった。幼い頃から教えられ、周りもそうであった武士道に生き、死した。今の命優先の尺度からは理解できないが、我々にないその純粋さが感動を呼ぶ。それに比べれば薩摩、長州は卑怯さ乱暴さが際立つ  

偶然だろうが、官選の初代長崎県知事も長崎市長も、もとは会津藩士。実は明治新政府は有能な士が戦死し人材不足だった。それを支えたのは全国諸藩の士族。特にしっかりと教育された有能な人材が多く活躍した。


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